今、もくもくmamaがしている仕事ってなに?

それぞれのページに行ってこのページに 戻りたときは左側にある 『初めての方へ』をクリックしてくださいね。
お店と 教室・指導者>………………→   

お店と教室にご案内

ギャラ リー…………………………………→ ギャ ラリーにご案内
出版物 へ作品掲載………………………→  最 新作品をご覧ください
作品の 注文制作販売……………………→  通 信販売をご案内
デザイ ンパックの制作………………… 通 信販売をご案内
病院な どの建築物への室内ペイト………→

病院の待合室  
の丸い柱です


プロ フィール

も くもくmama』ってなあに?

 

二人が出会ってもくもくmamaが生まれた
1988年3月開店

1973 年の頃の本高校生の頃


後藤久代井上節子

1987年

頭の片隅にいつもあった本。木製品に絵がかいてあるものがたくさん載って いた。二人で何か始めようと思ったとき木に絵を描くお店にしようと思った。

1983年偶然熊本県菊池 郡西合志町の道ばたで2人が出会った。同じ年、同じ血液型。長女も同じ年。趣味も同じ、そして同じようにひまだった。5年間ひましていたら、何かしたくなった。

私たちがしようとしているものはトールペイントというものだと教えてくれた本

『もくもくmama』のも くもくは木木(もくもく)と黙黙(もくもくとがんばる)の二つの意味。mamaは お母さん。


『もく もくmamaの

プロフィール


第一話

 二 人が出会ってもう25年位になる。25歳になる娘たちが 生まれてまもないころだった。お互い西合志に嫁いできて、まだ友達もいなかった頃、偶然に散歩の途中に声をかけあったのがきっかけで長いつきあいが始まっ た。ここまでは前のホームページに載せていた内容。

5年間普通の専業主婦の 普通の暮らしがあった。その間もう一人ずつ子供ができた。この頃というのはたいていの若い主婦は子供の世話に明け暮れ、ストレスもたまりはじ め、何かしたくなる頃である。

私たち二人も子供たちを遊ばせながら、仕事にでるほどの強い気持ちもないまま少しずつ淡い夢を膨らまし始めていた。漠然と したものだったが…当時のあこがれは、自分の店を持つと いうこと。

今ささやかながら自分たちの店をもつようになったが、それを実現するのに13年くらい経っている。考えてみるとのんびりし た話である。お互い生活費の中から出し合った計2万円が 出資金だった。

『わらしべ長者』ほどお金持ちになったというわけでないが、似ている。苦労もしていないのに何かそんなれに乗っていたらこんなになっていた。という話。

ただ私たちのモットーは その時、その時を大切に、をたいせつに、与えられた仕 事は全て前向きに自分たちのとする。この15年間それを貫いた。これに関しては二人の気持 ちに揺るぎはなかった。だから迷いはなかったし、しかった

さて出資金2万円をなにに使ったか。しかも3月開店したとた ん、後藤、福岡への転勤についていくことになる。さてどうやって乗り切ったか。このつづきは次回の更 新で・・・・・・・・・・・・。といったけど、前回のホームページではつづかなかったよね。更新の勉強はまだしていない のでどうなるかわからないけど、たぶん大丈夫と思う。だから つづく 絶対に つづく!!  

第二話

と半年前に決心した。いよいよこのページを更新する時がきた!
うふ(^-^)  最初は仕事のためとがんばったホームページ制作も今では私 の趣味の一つになってしまったみたい。おもしろい・・・・・。

それでは、もくもくmama開店当時の話から。昭和63年の秋、それまで二人よれば、なにをしようかねーと話し合ってい た。そんなある日茶碗を洗いながら、木に絵を描くことを考えついた。まだ私達の周りには全くなかった。「私の部屋」の木工作品を思い出していた。茶碗洗う のをやめて井上さん家へ走って行った。

そうはいっても木を切ったこともない私達、電気糸鋸の存在は知っていたが、果たして私達が買えるものなのか、私達に使いこ なせるのか、皆目見当もつかなかった。まずその糸鋸が10万円くらいするものなら、それは無理としてあきらめると言う結論を出した。

この時点で私達はある一つの大きな波に乗ることになる。
決して無理に波に逆らわずその波に体をまかせた。

程なくしてホームセンターのチラシに17,000円の電気糸鋸を見つける。すぐ購入、板も一枚購入。これが二人で1万円ずつ出し合って買った最初のも のだった。筆と絵の具は文房具店へ行き、「私の部屋」を持っていき、こういう絵を描きたいがどんな絵の具を使うのか尋ねた。その時買ったのは、チューブに 入ったアクリル絵の具4〜5本と筆を3本ほど。

私の作品第一号
家を建てたばかりだったので、二人でまず表札を作ることにした。
コーナーをカーブにカットし縁周りを彫刻刀で削った。下絵の転写にはチョークを使った。
この頃偶然、本屋で見つけた右の雑誌の「アメリカの手作り最前線』というコー ナーで『トール&デコラティブペインティング』と言う言葉を知る。


左のカントリードール2体はこの雑誌を参考にして、木をカットして、絵付けした 記念の作品。ベースはオイルステインで塗る。この頃は木工制作は井上担当、絵付けは後藤担当だった。
この雑誌の掲載されていたジュディーさんの描かれたバラを見たとき、『いつかこ のバラがかけるようになりたいなあー』とため息混じりで思った・・・・・・。

年が明けてやっと本腰入れようかと今後のことを話し合う。

この頃二人の周りには4歳以下の子どもがなんと5人もうろうろしていたので、何とも仕事が 思うようにすすまなかったのをお覚えている。一応3月ごろ、近くの公園で子ども劇場のバザーがあるということを聞き、とりあえず、それに商品を出すことで 開店ということにしようと計画を立てる。名前も「もくもくmama」と決定!身の丈にあった名前に満足。
ところが!
いよいよバザーも近づいた3月9日なんと私の夫に転勤命令!行き先は福岡!夫は一週間後に福岡へいく。私と子どもは3月19日もくもくmamaの開店デ ビューを済ませ、3月21日とりあえず福岡へ引っ越し。建てたばかりの家は開けたままにして、時々帰ることにする。

[もくもくmama]の仕事になぜかとても将来性を感じ、離れたからと行って、やめようと いう気持ちは全くなかった。当時は仕事を木工と絵付けという風に分担していたので、受けた注文をまず井上が木で作り、宅急便で後藤の所に送り、絵付けをし てまた熊本に送り返し、井上が自宅の玄関で販売する。というやり方で進めることにする。

実は
この「福岡に転勤」と言うことがもくもくmamaにとって相当プラスになったのである。・・・・・。大きな波はどんどん私達を運んでくれた。
この続きは次回の更新で・・・・・。

第三話
福岡には1989年(平成元年)3月から1992年(平成4年)3月までちょうど3年間い た。

最初の一年は熊本での手作り市やガレージセールのため作っては送り、送られては作りを繰り返した。

ある時熊本のデパートの手作り市で販売していたとき、同じく参加されていた、福岡のオランダフォークアートの先生とお会いしたのが一つ目のステップアップ だった。先生か「ソ レイユ」と言う素材を販売する店が福岡にあることを教えてもらう。開店して間もないそれはそれは小さなソレイユさ んだった。

私達が井の中の蛙にならずにすんだのも福岡でソレイユさんとのおつきあいがあったからだと思う。たくさんの情報をいただき、当時はまだ珍しかった外国から の先生のセミナーは一つも逃さないように受けまくった。最初の頃は直接「師」と仰ぐ人がいないことに不安もあったが、その自由さもまたありがたかった。

私が生まれて初めて受けたセミナーは福岡の牛島先生の初心者のための作品だった。次はジャッキー・ショー先生(井上も熊本から参加する)。次の年はジョ・ ソーニア先生だったかな???とにかく
いきなり、超一流の先生方のセミナーを受けるチャンスに恵まれた。



左はセミナー第一回目牛島先生の午年の壁掛け。右はジャッキー・ショーのセミナーで描いたもの。


右左どちらもジョ・ソーニアのセミナーの作品。最初の頃は誰でもかけるように優 しい内容のものが多かった。

今でも忘れられないのはジョ・ソーニア先生がご愛用の一本のロングライナーに絵の具をつけると、そのあと一度も付け足すことな
くA〜Z>を書かれ最後にサインまで書かれたのには驚きでした。感動!!!  


福 岡に来て一年目の春、それまで子どもの幼稚園のバザーなどにも出していたものがお母さん達の目に留まり、「教えて」の声が上がるようになる。それまで全く 教え ると言うことが頭になかったが。とにかく「自分たちの力で
考えたり勉強したりしたこと」、「私達が知っていること」を教える教室にしようということになった。


また波が来た
そのころまたありがたい波が現れた。私が利用していた生協のお店(当時は南区高宮の駅の前に「たんぽぽ」 という名前で小さな2階建ての建物のお店だった) のチラシの中に教室を募る内容のものがあった。生徒募集は生協のチラシで各家に配っていただけると言う何ともありがたい企画だった。すぐに乗った。
   

(後で知ったのだが、生徒さん第一号の福岡の印南(いんなみ)さん達生協の役員さん方の企画だったとか。彼女は15年間変わりなく、私達を支え続けてくれ ている。たぶんこれからもまだまだ永いおつきあいは続きそうである。不思議なことに最初にお会いしたときよりますます若々しくパワフルになられた彼女。私 達の理想 である。)

1990年6月4日たんぽぽでトール教室説明会をする。10人以上の参加があったように思う。まだトールペイントが珍しかった頃で教室の日が、最初の頃は 月 に4日だけだったのが半年後に8日に。熊本に帰る頃には土、日、祝以外はほとんど教室だった。自宅(といってもせまい社宅私より半年遅れて、熊本で教室を 開いた井上も同じように大盛 況だった。特に熊本にはまだ先生も少なく(私達が知る限りでは、先生はお二人だけだった。)

私は子どもは2年保育で行こうと決めていたけど、さすがに3番目は待ちきれず、3年保育にしてもらう。と言っても私が午前中教室している間、幼稚園にいて もらって、午後は2人でお昼寝と言うのがもっぱらのパターンだった。

つくづく「先駆け」と言うのは苦労がいらないなあ」と思う。自然に身を任せる
だけで、天才的素質がなくて も、経営的才能がなくても。仕掛けに長けていなくても、リスクを背負わなくても、無理せずとも事が運ばれていったように思う。只当たり前のことをちゃんとしていくだけで・・・・・・。
第四話
1992年4 月、後藤、熊本に戻る。福岡教室を毎週金曜日に熊本から通うという形で存続する事にする。井上と二人で高速道路で通う。ソレイユに行って仕入れをし刺激を 受けて帰るのも一つの目的だった。
同時に西合志の後藤自宅をもくもくmamashop&教室として改めてスタートする。


の写真は”ルウ”と言うミニコミ誌に初めて広告を出してもらった時のもの。(もちろん無 料)

熊本で初めてのトールペイント教室のある素材の専門店としてコマーシャルをだした。
といってもこんな田舎のこんな不便な住宅街の一番奥にあるお店。せいぜい一日に一組か二組来ていただいたらラッキーと言う状態。まあ自己満足も良いとこ だった。そのうち安売りする、大型手芸店ができ、最近は生徒さんにもあっちで買う方が絶対安いよ。と言う始末!

要するにこの店は私達にとっては制作するうえに不可欠な材料の、”贅沢な倉庫”と言う意味合いが強かったようだ。とにかく、筆と絵の具とメディウムは全部 そろっているわけだから、ずいぶん恵まれた環境だった。


一階の リビングが教室


SHOP 入り口


二階の屋根 裏部屋がShopです。
また波が来 た
波は私達を大きく前進させてくれるもである。今度の波はちょっとだけメジャーデビューすることになったもの。
私達は1991年から毎年一回作品展をすることをノルマとしてきた。それは作品展が自分たちの成長に不可欠だと思ったからだ。人様に作品を見ていただくた め、新作に全力を尽くす。それは、私達に思いも寄らない力を発揮させる。徹夜もする。一日中考える。何枚も紙に描いてみる。作品展の時だけは、私達の目の 色が変わる。
おそらく私達ほど絵を描かない(自分の楽しみのためには絵を描かない)ペインターいないと思う。だからノルマが必要だったのだ。
それに描くことは好きだけどそれが家に増えていくことはきらいだった。
恐らくメジャーデビューする事になった最初のもくもmamaの代表的作品となった「ジンジャードール」などは全く私達の家には飾らなかった。

1993年の作品展は福岡では銀行のギャラリーに展示した。以前からソレイユで何回かお会いしていた菊池社長のご子息の達也さん(現カラーフィールド有限 会社 代表取締役の佐久間達也さん)が福岡に来られて私達の作品展を見に来てくださって、初心者向けのいくつかの作品をデザインパックにするお話をただい たのだ。









私達が今あるのもサンケイさんと、とりわけ達也さんのおかげかなと・・・(あしを向けて寝ていませんよ)。これ以来いろいろ雑誌のお仕事もさせていただけ るようになった。

自宅の玄関先から始めて、たくさんの幸せの波とたくさんの方々のささえで今の私達があるんだなあと昔を振り返ってつくづく思う。

なんだか終わりみたいだけどま だ終わらないよ・・・。

第五話
後藤宅のshopと教室も4年くらいで飽きてきて、今度は井上宅ですることに決定。インテリア大好きな井上、早速自宅を 改装。教室とSHOPを移動した。

平成9年の3月熊本の生活情報誌「熊日スパイス」に掲載された。




引っ越したもくもくmamaの教室風景


平成9年の作品展のはがきは改築したばかりの
井上宅で撮影しました。
上の写真の教室の奥のふすまの左側が下の写真の部屋につながりま す。部屋の半分は板張りの床、その先は一段下がりのタイル張りで庭の外まで続いている。もとは日本間2間続き広縁付きとは思えない変身ぶり。

井上宅での教室は平成13年7月に今の店に引っ越すまでやはり4年間くらいだった。しかも今度の引っ越しは始めて外に出ると言うもの。家賃が発生するとな る、ちょっと緊張する。
第六話
流れのついでに第六話とかはじめようと したが、いくら何でも長編ドラマになるような大した歴史があるわけでも。しかも前向きな性格で過去のことを忘れる性格であるから、ほんわか思い出はあった にしても細かい事は覚えていない。なんとか整理もされていない、写真群の中から、同年代らしい写真を集めて、並べてみることにした。写真が不鮮明なのは全 て古い写真を改めてデジカメでとったものですので、ご了承ください。

1991年3月(平成3年)



見るだけでも恥ずかしい
最初の作品展のはがき

まだ,ワープロもパソコンも 知らない頃。手書きの原稿を印刷屋さんにもっていって、印刷してもらい、何枚だったか忘れたけど、一枚一枚塗り絵したのです。トールを知らない人がこんな はがきをもらっても困っただろうな。「いったいなにをみせられるのだろー??」って






と言うわけで肥後銀行福岡支店の
ロビー展が一番最初の作品展。


始めた当初はベースは全てオイルテイン。素材はほとんどもくも くmamaオリジナルデザイン





15pの四角額にいろいろな絵を描いたなー




最初表札は年輪のきれいな松の木を使っていたが、外に掛けているとってきた。木材やさんに尋ねるとア ガチスという木(外材)をすすめられた。


ウサギの
タオルハンガー





表札

四人家族の表札、赤ちゃんウサギが増えたり、おばあちゃんやお じいちゃんが加わったり、いろいろに変化した。



鳥のオーナメント


本当は絵など描かない方がいいと思いながらもトールペイントを している手前そういうわけには行かない。余り目立たないように描くことにした。


身長計

家の娘も夏休みの宿題に作って十年間くらいリビングの壁に掛け ていた。微妙にメモりが狂っていたけど、アバウトなファミリーにはど うと言うことはない。身長は確かに大きくなっていった。
1992年3月(平成4年)




熊本のNHKのロビーで生徒作品展
テレビにも出演しました。ステインの作品に変わってJo Sonjaの絵をたくさん描きました。



Jo Sonja著
左「The Basics of Folk Art」
右「Folk Art Techniques」

この頃、数少な い洋書を参考に生徒さん達と勉強しました。右の本はもうぼろぼろ、載っている絵はほとんどを描き尽くしました。


二人のプロフィール

井上節子

後藤久代

生年月日

1955年11月1日生

1956 年2月3日生

星座血液型

蠍座 0型 水瓶座 0型
好きな食べ物 海鮮料理 ご飯、麺、パン
趣味  ボーとして真っ暗な中でのビデオ鑑賞(ビール付)
近所のおばさんたちと毎週やるミ ニバレー歴20年
性格  何でもすぐ忘れ る!
いいこと、悪いこと何でもお構いなし、ねに持ちたくても持てない!(これって痴呆かな?)

前向きなので後ろがよく見えない。従って過去もよく忘れる。だからいつも今が最高と 思っている単純な女。
自慢 もくもくを始めて20年間病 気で仕事を休んだことがない もくもくを始めて20年間病気で仕事を休んだことがない

経歴

東 京家政短期大学美術科卒業、インテリアショップ勤務、皮革販売&講師を経て、染色を独学で続ける。結婚後後藤と出会い独学でトールペイントを学ぶ。

保育園勤務の傍ら、講談社フェーマススクールズの通信教育にて商業デザイン コースの基礎課程を修了する。フェーマススクールズのアートコンテストで入賞。地元の保育新聞に15年間イラストを掲載。


HOMEへ戻る ページのtopへ戻る